町長の部屋10月26日号
久しぶりに真岡線に乗りました
久しぶりに真岡線に乗りました。天道虫のような模様の車体にゴットンゴットンと揺られて、ゆっくりと進みます。
車窓からは、秋の刈り取りが終わった田んぼの横に、コスモスなどの草花が美しく咲いているのが見えます。その一方、近くの家の庭でおかあさんが洗濯物を干していたり、おじいさんが縁側で新聞を読んでいたりする日常生活も垣間見ることができます。なんとなく不思議な気分です。
真岡線の茂木町までの乗り入れは、1920年(大正9年)当時の七井浅次郎町長を先頭に町民一丸となった敷設運動がみのり実現したものです。その後は、茂木町発展の重要な輸送機関として住民の足としてはもちろんのこと、茂木産タバコ、食料、材木などの運搬に活躍することになるのです。昭和30年代の一時期には、「準急つくばね号」が走り、茂木―上野間を直通で結んだこともあったほどです。しかし、その後はマイカーの普及に押され、利用者や貨物も減少の一途をたどり、とうとう、昭和40年代には、国鉄による真岡線廃止の示唆がなされることになってしまいました。しかし、茂木町民をはじめとする沿線市町民の猛烈な存続運動が起き、昭和62年、第3セクターとして新たなスタートを切ることになったのでした。現在は、主に高校生の通学や会社勤めの方の通勤に、また、日赤病院などへの通院の手段として利用されています。
そんな真岡線の歴史に思いをはせながら、真岡までの45分ほどの旅を楽しみました。
車窓からは、秋の刈り取りが終わった田んぼの横に、コスモスなどの草花が美しく咲いているのが見えます。その一方、近くの家の庭でおかあさんが洗濯物を干していたり、おじいさんが縁側で新聞を読んでいたりする日常生活も垣間見ることができます。なんとなく不思議な気分です。
真岡線の茂木町までの乗り入れは、1920年(大正9年)当時の七井浅次郎町長を先頭に町民一丸となった敷設運動がみのり実現したものです。その後は、茂木町発展の重要な輸送機関として住民の足としてはもちろんのこと、茂木産タバコ、食料、材木などの運搬に活躍することになるのです。昭和30年代の一時期には、「準急つくばね号」が走り、茂木―上野間を直通で結んだこともあったほどです。しかし、その後はマイカーの普及に押され、利用者や貨物も減少の一途をたどり、とうとう、昭和40年代には、国鉄による真岡線廃止の示唆がなされることになってしまいました。しかし、茂木町民をはじめとする沿線市町民の猛烈な存続運動が起き、昭和62年、第3セクターとして新たなスタートを切ることになったのでした。現在は、主に高校生の通学や会社勤めの方の通勤に、また、日赤病院などへの通院の手段として利用されています。
そんな真岡線の歴史に思いをはせながら、真岡までの45分ほどの旅を楽しみました。
この車両に揺られて45分
車内の様子。皆さんの通勤通学、そして通院に利用されています
参考リンク
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